戦争責任~100歳の遺言~

戦場経験者の証言

今村和男さん(100)

 東京・世田谷に住む今村和男さん(100)は、かつて、陸軍技術士官として兵器や装備品の開発に携わり、特攻隊員を見送った経験を持つ。
「あす、特攻に向かうといっても皆、若い兵隊ですよ。なかなか受け入れられるものではありません。1人1人に『俺も後から行くから、お前たち先に行け』などと話しましたが、皆死にたくはないのです。最後は全員で肩を組んで『故郷』を歌いました。皆泣いていました。故郷が恋しい、両親が恋しい。私も泣きました」
和男さんは、結核で入院中に終戦を迎えた。研究者として蓄積した資料、研究データは、米国に押収される前に全て焼却したという。

陸軍大将 今村均

 和男さんが、日本で療養している最中、和男さんの父親は陸軍幹部として7万人の兵とともに日本から約5000㎞離れた南方の拠点、ラバウルに駐留していた。父の名は、今村均。敵国や、被占領国の首脳から「真のサムライ」と呼ばれた陸軍大将である。
 1886年に仙台市で生まれた今村は、判事を務めた父親の転勤にともない新発田市で青年時代を過ごした。新発田高校を首席で卒業し、東大進学を志したが、父親の急死により、陸軍士官学校入りする。同期には佐渡出身の本間雅晴中将がおり、2人は親交を深めたという。和男さんの話しでは、長岡市出身で連合艦隊司令長官を務めた山本五十六元帥とは海軍、陸軍の枠を超えて本音で意見を言い合った仲だという。

敗戦理由の象徴 〝餓島〟

 太平洋戦争中、今村はインドネシアやラバウルを転戦して終戦を迎える。オランダが植民地化したジャワ島の侵攻作戦では、日本の約2倍の兵力を擁した連合国側を侵攻わずか9日で無条件降伏に追い込んだ。後に建国されるインドネシア初代大統領を務めたスカルノは、軍政を敷いたとはいえ現地住民の自主性を尊重した今村の姿勢に感銘を受け、「本物の侍」と評したという。

来日したスカルノと談笑する今村均(中央) <今村和男氏提供>

畑を耕して自給自足態勢を整えた。約1000㎞離れたガダルカナル(通称 餓島)では、食料が底をつき、次々に兵士が餓死する凄惨な戦場となったが、今村は昭和天皇から”勅命”によりガダルカナル救出作戦を敢行。1万人を救い出す。
 その救出作戦に至る経緯について、長男の和男さんは、「当日は、宮内省⦅当時⦆から迎えの車が差し向けられました。私は父に連れられて皇居に参りました。昭和天皇に面会する際は、勿論、同席しておりませんので、昭和天皇からどんな”勅命”があったのかは、わかりませんでした。その内容は終戦後に、父が来客と話している会話でわかりました。昭和天皇は、『ラバウルから兵士を助け出して欲しい』ということを直接、父に語ったということです。」
 勿論、事前に父は、参謀本部から餓島の状況や、今後展開する作戦等の説明は受けていたました。その内容に対して、父はこのように話しておりました。
『あれは、ダメだ。実際に戦場で戦ったことがない者が、作戦を立案している。これではうまくいく筈がない』と。」

今村没後50年

 新潟県では、山本五十六元帥のことはよく知られているが、今村均を知っている人は少ないのではないか。UXでは、一昨年10月に「孤島の教科書~陸軍大将 今村均の戦後~」と題した特別番組を放送した。きっかけは、母校の新発田高校同窓会が、82歳で亡くなる3か月前の今村の肉声を録音保管していたことだった。さらに、調べを進めると全国には、今村大将ゆかりの品を大切に保管している方々がいらっしゃることがわかった。

築保存された謹慎小屋(山梨・韮崎市)

 例えば、戦犯として10年の禁固刑を受けた今村が、出所後も謹慎するため自宅に作った独房が、部下の手によって山梨・韮崎市に保存されていること。さらに、戦犯として服役した兵士たちに希望を持ってもらおうと、今村の指示で手作りされた”教科書”が、ラバウルから持ち帰られていたことなどである。今でも多くの人が「戒め」と「希望」とを心に刻み続け、大きな影響を受けていることがわかった。

謹慎小屋での今村 <今村和男氏提供>

 今村が没して50年、ちょうど100歳を迎えた長男の和男さんの証言もまた、父親、そして戦争の貴重な記録である。

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